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60秒で分かる
山田みき

Profile in 60sec

山田みきを簡単にまとめました。
これまでの生い立ちをスライド形式でご覧いただけます。

60秒で分かる山田みき
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60秒で分かる山田みき
山田みきのプロフィール

前衆議院議員

山田 美樹Yamada Miki

東京都第一区(千代田区・新宿区)

外務大臣政務官としての活動履歴はこちらから

環境副大臣としての活動履歴はこちらから

山田みきのプロフィール

プロフィール

Profile

2023年9月より自民党副幹事長を務める

主な元職 環境副大臣 法務部会長 外務大臣政務官
経済産業部会 部会長代理
財務金融委員会 理事 法務委員会理事
自由民主党 住宅土地・都市政策調査会 事務局長
 同 都市の緑PT座長
女性活躍推進特別委員会 事務局長
社会保障制度調査会 創薬力の強化育成に関するPT 事務局長
環境・温暖化対策調査会 サステナブルファッションPT 座長
金融調査会 副幹事長
中小企業・小規模事業者政策調査会 事務局次長
知的財産戦略調査会 幹事 競争政策調査会 幹事
文化立国調査会 事務局長代理
クールジャパン戦略推進特別委員会 事務局長代理
議員連盟 ジェネリック医薬品の将来を考える会 事務局長
女性・平和・安全保障(WPS)議会人ネットJAPAN 事務局長
住宅対策促進議員連盟 副幹事
石油流通問題議員連盟 常任幹事
料亭文化振興議員連盟 事務局長
繊維ファッション議員連盟 事務局次長
その他、各分野の議員連盟に多数所属
好きな言葉 ファンタジーがなければ生きていけない
これまでの愛称 やまちゃん、ミキティ
趣味 旅行、百貨店めぐり、お祭り、映画音楽鑑賞
エネルギー源 甘いお菓子、お寿司、お蕎麦、カップラーメン
お薦めの本
  • 『パリ』の仕組み - ファッションで頂点を保つ理由がここにある
  • 想像の共同体 - ナショナリズムの起源と流行
  • ホモ・デウス - テクノロジーとサピエンスの未来
  • 前へ!東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録
好きな映画 「インディ・ジョーンズ」、「ルパン三世カリオストロの城」、「ニューシネマパラダイス」、「エントラップメント」、「ホワイトアウト」
カラオケ十八番 「いい日旅立ち」、「別れの予感」、「卒業」、「La Isla Bonita」、「The Galaxy Express 999」、「ラムのラブソング」、「ネビュラチェーン兄弟の絆」
山田みきの経歴

山田みきの経歴

History
昭和49年3月15日 東京都生まれ
平成8年 東京大学法学部卒
通商産業省(現 経済産業省)入省
WTO通商交渉や特許庁の組織改革に従事
平成14年 コロンビア大学 経営学修士(MBA)取得
平成14年 内閣官房副長官補室
産業再生、地域再生、経済連携協定に取り組む
平成17年 ボストンコンサルティンググループ
ヘルスケア、製造業をはじめとする国内外のプロジェクトに従事
平成19年 エルメスジャポン株式会社 営業企画マネージャー
平成23年 公募により、自由民主党 東京都第1選挙区(千代田・港・新宿)支部長に就任
平成24年 第46回衆議院議員選挙にて、初当選。
平成27年 第3次安倍内閣改造内閣にて、
外務大臣政務官を務める
平成29年 第48回衆議院議員選挙にて、3選
令和3年 第49回衆議院議員選挙にて、4選
令和4年 第2次岸田改造内閣にて、環境副大臣を務める
令和5年 自民党副幹事長を務める

山田みきの生い立ち

Upbringing
  • 幼年時代
  • – 01 –

    幼年時代
    いつもビリだった私の、思い出の運動会

    昭和49年3月、私はエンジニアの父とピアノの先生の母のもとに生まれました。美樹という名前は、両親が宝塚歌劇団のパンフレットを見ながら考えたそうです。

    子供の頃の私は、人一倍運動が苦手で、運動会の徒競走ではいつもビリでした。逆上がりも、二重跳びも、結局できないまま。水泳教室では、クロール25mの進級テストに合格するのに1年以上かかり、プールに行くと泣きながら帰ってくるような子でした。

    小学生のとき、私が命をかけていたのが、秋の大運動会で6年生全員で行進する鼓笛隊パレードです。私は音楽が得意だったので、この時だけはビリではなくて先頭で、総合指揮を務めました。160人の足音とメロディーがぴったり合うまで、何度も練習しました。団塊の子供の世代である私の学年以降、子供の数は減り続け、私の母校の空き教室は、今では地域の文化センターとして活用されています。

  • 15歳〜
  • – 02 –

    15歳〜
    貿易摩擦の時代、通産省に行きたい

    記憶を遡ると、たぶん私が初めて「日本」という国を意識した、ある事件を思い出します。ある日の朝、テレビのニュースで、アメリカのホワイトハウスの前で、私の家にあったのと同じ日本製のラジカセを、誰かがハンマーで叩き壊している、衝撃的な映像が映されました。当時、私の父は、電機メーカーで輸出を担当していました。海外出張が多く、日本にいる時も私が起きている時間には家に帰って来ませんでした。高校生の時、私は、自分もいつか日本のヒルズ通商代表みたいになって、アメリカと交渉するんだ、などと本気で思っていました。

    学生時代、私は、一生懸命勉強しました。当時はまだ、女子学生は就職が不利な時代でした。どんなに頑張っても、就職面接で「今年は女子は採用しません」と言われたら終わり、と言われていました。私は開かない扉に向かって無駄な努力をしているのかもしれない、ダメだったらどうするの?不安との戦いでした。

    だから、大学4年の夏に本当に通産省に内定を頂いた時は信じられませんでしたし、女の子にはそれほど重要な仕事は回って来ないだろうという気がして、正直なところ、あまり将来に夢を持っていませんでした。ところが、翌年の4月に決まった配属先は、当時発足したばかりの世界貿易機関(WTO)の仕事を扱う、私が夢見た「通商交渉」の現場だったのです。

  • 幼年時代
  • – 03 –

    26歳〜
    ニューヨークでの闘い 〜 9.11テロとの遭遇

    26歳の夏から2年間、ニューヨークのコロンビア大学で経営学を勉強しました。62人のクラスでたった一人の日本人、議論についていけない私は落ちこぼれでした。アメリカ人に生まれていれば、言葉のハンデを背負わずに済んだだろうか、私が日本で受けてきた教育、勉強に費やしてきた時間は何だったのか、日本のシステムの中で育ったことを恨めしく思うことさえありました。マンハッタンが悲惨なテロに遭ったのは、私がやっと学生生活に慣れてきた頃でした。

    留学中、私が何よりも励まされたのが、プロ野球大リーグでの日本人選手の活躍でした。プレッシャーや悩みがあっても、顔や言葉に出さずに笑顔でやっている。私ももっと明るく頑張らないとダメだ、と痛感しました。勉強や仕事でも、英語が母国語でないことを言い訳にしたくない、日本という枠にとらわれずに世界のプレイヤーと共通の土俵で勝負したいという夢は、私の人生では叶わないかもしれませんが、私の次の世代に、その夢を託したいのです。

  • 28歳〜
  • – 04 –

    28歳〜
    小泉内閣を支える一人として

    2002年に帰国した私は、小泉内閣の内閣官房に配属になりました。首相官邸の政策スタッフとはいえ、私のような若いスタッフには体力も重要でした。官邸で毎日のように開催される会議には、毎回、膨大な量の地道な準備が必要です。事前に何度も関係省庁と協議を重ねて議事進行や必要な資料を整える、閣僚の席次を確認して座席を準備し、各大臣の手元の資料に誤りがないか最終確認する、官邸の正門に立って有識者の方々をお迎えする、会議の議論や記者会見での論点を整理して次へと繋げる…。全省庁から集まった同世代の仲間との助け合いでした。どんなに小さな仕事も、政権を支えているんだ、というのが私達の喜びでした。

    当時は、拉致被害者問題が急展開した時期でもありました。ご家族の方々の会合のお手伝いをしたこともありました。子供時代を私と同じ品川の大井町で過ごされた横田めぐみさんの、お父様とお母様の揺るぎないお姿が、強く心に残っています。拉致被害者のお子様方5人が日本に帰ってきたあの日も、大勢の報道の方々と一緒に会場の玄関でお迎えしました。あれからもう20年以上、早く何とかしなければ。何の進展もない現状に焦りを感じます。

  • 30歳〜 
  • – 05 –

    30歳〜 
    ビジネスの世界へ 〜 民間企業での再出発

    30歳のとき、私は新しい挑戦をしました。公務員を辞めて、米国系の経営コンサルティング会社で再出発することになったのです。アメリカ流のビジネス文化の中に飛び込んだ私が出会ったのは、意外にも日本の再生に悩む日本人の経営者の方々の姿でした。

    国内市場が年々縮小し、構造改革で競争の波に晒される中で、多くの日本企業が、事業見直しや業務効率化、組織改革を迫られていました。日本企業の真の競争力とは何か、考えさせられる日々が続きました。変化を好まない日本の企業文化を乗り越え、果敢に変革に取り組む経営者の方々と一緒に働くことができたのは幸せな経験でした。

    また、外資系企業や、日本企業の海外進出先で活躍している日本人ビジネスマンの方々との出会いもありました。日本の競争力は、日本人の競争力に他ならない、と強く実感しました。

  • 33歳〜
  • – 06 –

    33歳〜
    エルメスとの出会い 〜 お客様の幸せを願う気持ちを行政へ

    33歳を迎えた夏、私は、海外経験と経営コンサルティングの力量を買われ、エルメスで営業企画の仕事を与えられました。思いもよらないファッション業界への転身でした。それまで私とは縁がない、永遠に憧れだと思っていたエルメスが、突然、自分の仕事になりました。役所を辞めて以来、自分の進むべき道を探し続けていた私に、少しずつ光が差し始めました。

    ところが入社して間もなく、私は忘れられない出来事に直面しました。それは、実習で初めて店頭に立った時に見た、お客様の本当に幸せそうな姿でした。なぜか私はその瞬間、霞が関で働いていた頃を思い出したのです。あの頃、私は毎日朝の4時まで働いた。寝不足で廊下の隅の床の上に寝たこともある。なのに、その仕事のおかげで幸せになった人の姿を、私は一度も見たことがない。いったいどうしたら、日本の行政は人を幸せにすることができるのか。

    その時の思いが、政治を志す出発点となりました。