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与謝野馨先生への手紙

2017.05.25

与謝野馨先生

最後に先生の演説をお聞きしたのは、前回の衆院選、西新宿の丸正スーパーの前でした。12月の寒い夕暮れ、病をおして応援に駆けつけてくださって、お身体をさらに悪くされてしまったのではないか、ずっと心苦しく思っておりました。先日お会いした時には、「今の自民党の当選2回生は数が多くて大変だけど、自分の仕事をしていれば必ず道が開ける」と、さらさらと紙に書いてくださいました。もう、お目にかかることは叶わないのでしょうか。

与謝野先生は、初当選された38歳の頃からずっと癌を患っておられたと、以前、先生の著書『全身がん政治家』で知りました。私も38歳で国会に送り出していただきましたが、もし自分なら、周りの人々や、家族にさえ一言も言わずに、自分ひとりで孤独を抱えられるだろうか。苦しい治療を続けながら、何食わぬ顔をして公務を続けられるだろうか、と考えます。どんな場面でも穏やかに微笑んでいらっしゃった与謝野先生のお姿が、日本政治のこれまでの流れと共によみがえってきます。

与謝野先生が通産大臣に就任された時、私は入省3年目の職員でした。NHKのニュースで閣僚人事が発表になった時、職場で拍手と歓声が上がったのを思い出します。直接お目にかかることはありませんでしたが、淡々としていて知的なところが大好きな大臣でした。ささやかながら、与謝野大臣にまつわる思い出が二つあります。

当時、EUのバナナ輸入制度を米国がWTOに提訴し、日本政府にも見解を問われる場面がありました。私もよく深夜までかかって大臣答弁を作成しましたが、一度、与謝野大臣が記者会見でそれを読んでくださったことがありました。普段は答弁の紙はほとんどご覧にならない与謝野大臣が、枠外の補足情報まで全部読んでくださり、最後に記者団に向かってにっこり笑ったお姿をテレビで拝見して、本当に嬉しかったのを覚えています。

また、EUのブリタン副委員長から与謝野通産大臣に電話が掛かってくる、ということもありました。ブリタン副委員長から与謝野大臣へのリクエストを伝える公電が、何かの間違いで、分厚い書類の束の中に紛れていたのです。たまたま私がその公電をみつけたのは夜の10時過ぎ。先方のリクエストの日時は明日。真っ青になって上司に報告し、徹夜で想定問答を作りました。翌日、与謝野大臣とブリタン副委員長の電話会談は予想以上に話が弾んだと聞いて、ほっとしてそのまま机の上で眠り込んでしまったのを思い出します。当時は、自分が政治の道を志すことになるとは、思いもよらないことでした。

自民党の公募の審査を経て、最初に、東京1区と伺ったのは、東日本大震災の直前の2月のことでした。まさか、どうして自分が、というのが正直な気持ちでした。一番つらいのは、長年ずっと皆が大好きだった与謝野先生の後を務めなければならないことでした。自分はそれに値する人生を歩んできたのか、そしてこれから先、不断の努力を続けて行く覚悟があるのか、自問自答の末に意を決して、無我夢中で走り続けて5年が経ちます。初めての「山田美樹を励ます会」のとき、与謝野先生が「政治家が一人前になるには10年、15年かかる、皆で山田さんを育ててください」とご祝辞をくださいました。私の行く先を、これからもお導きいただければと思います。

与謝野先生が、後に続く世代に負の遺産を負わせないために、勇気をもって苦しい決断をしてくださったことに、心から敬意を申し上げます。私のような団塊ジュニア世代が現役を引退するまでに、あと30年近くあります。それまでに、この国が生き残るための道をつくり、財政を立て直して、かつての戦後の高度経済成長に続いてもう一度、日本に奇跡を起こしたいと思っています。どうか天国から温かく見守っていてください。

 

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